遠軽町立東社名渕小学校

昭和25年1月8日開校   昭和55年3月31日閉校


平成19年11月訪問



遠軽中心地から社名渕への道道137号線を進み
道道711号線へと南下する
学校名は東社名渕とあるが 現在の集落名は若松である

何も無い所をしばし車で走っていると突然バス停の空間が現れ
その奥にこの学校跡地がある
校舎前にお住まいの方がいるのか判らない建物を確認したのみで
ここからの奥に住民がいるのだろうか
バス停があるぐらいなので誰かいるのだろう

それにしても味わいのある校舎が残されているではないか









校舎正面に元々何の像だったのか判らなくなった物が残されている
児童の作品としては大人びているので
父兄の作品だろうか
などと思ったが素人の物ではないだろう









正面玄関が開け放たれていた
もんちろん内部のへ進入は基本的にしてはいない









しかし覗かせてぐらいさせてもらっても
叱られはしないだろう









窓ガラスも所々割れている









その割れ目から撮影
ここは教室だったのだろうか 広い空間である
壁の上下の色の違いが昔の学校らしくて良い

遠軽町史に掲載されている校舎の写真では
建設当初のものなのかこの部分の建物しかない
と言うことは繋がる部分は後から増築されたのか
しかし外観からは判らなかった









奥の廊下だった場所?の上部には校歌が掲示されている









こちらは校舎横に佇む旧教員住宅らしき建物
外壁の感じが校舎と統一されていて素敵である









その奥にも教員住宅と思われる小さな建物が佇む
こちらは少し新しめ









校庭跡隅に轍が出来ている
おそらく廃校になった校舎の利用のされ方で頻度の高い
農業機械の倉庫として使用されているのだろう









そのようであった
体育館らしき建物がないところを見ると
先ほどの最初に覗いた方をそれとして使用していたのだろうか


当初はこの部落に35戸の開拓農家があり
40名ほどの児童は三本に分かれた沢道を
遠く10キロも離れた社名渕尋常小学校まで通学した

昭和22年には吹雪積雪のため3名が行き倒れとなり
危うく死に直面するという危険にさらされた事例を体験しながらの通学であった
東社名渕地域の住民は分校設置の陳情活動を精力的に繰り返し
 同24年 地域では分校設置のため
住民の労力奉仕等により帝国製麻会社遠軽工場の倉庫を購入し
改築して粗末ながらバラックの校舎を完成した

そして翌年分校の開校に至り
児童はこの日以降ここで学ぶ事となったのである
遠軽町史より

その東社名渕小学校も昭和35年51名であった児童数が
離農などによる過疎化により減少し

同55年には5名になり閉校する





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