旧朝日町上似集落

平成19年6月他訪問



平成17年に士別市と合併した朝日町 その士別市とを結ぶ道道61号線沿いに
岩尾内ダムがある

ダムは昭和40年より工事が始まり同46年3月に完成した
周辺の冷害や凶作 天塩川の洪水
悩む周辺住民のためダムは計画されたのである

ダム建設地に選ばれたのが 当時朝日町第二の集落であった
似峡(ニサマ)
そして最深部に沈んだのが岩尾内であった

この風景に着工前の昭和40年まで
郵便局・診療所・交番・農協・映画館・旅館・食堂・小学校・中学校があり
800人余りが暮らした似峡の集落があったのである










岩尾内ダムの東端
ここは現在公園となっている そこからご覧の未舗装の道路
これがかつての集落へ続いていた旧道の一部である
入り口の看板には
「この先は、水没した似峡市街地の跡地であり、せともの・ガラス片等が
散乱している場所がありますので、入られる方は十分注意して下さい」
岩尾内ダム管理所

ダム湖の水が減る時期には かつての集落跡へ進んで行けるのだ










訪問時は満水状態 すぐ先で道路は水没している










似峡の集落の報告は別にするとして ここではその東奥
当時はそこが朝日町の行き止まりであった
現在はこの道道61号線が上紋峠で越え 滝上町へと続いている

ダム建設で全戸移転した上似の地区
写真の風景には農地やその住宅が点在していたのだろう










森林鉄道が朝日町の中心からこの上似の奥へも続いていた
しかしその痕跡を探すも見当たらないまま道道を上似中心へと向かう

道道が峠で越える前は この先右手へと折れ そして数キロ先で行き止まり
そこに森林鉄道の終点 林業の集積場があったのだろう










これがかつての上似集落最深部への入り口
「経営林道 上似峡線」 とある
現在は林道としてその道は残されている
しかし当時の入り口はここから数百メートル似峡側の位置
道道が整備された時に真っ直ぐ進めるこの場所を入り口としたようだ

朝日町史によると
上似地区は昭和8年 北海道第2期開拓計画によって根釧原野から移住したが
気象・土地条件が悪く しかも昭和9年10年と連続した冷害・凶作により
その大半が離農していった
同28年 戦後開拓制度によって「似峡地区開拓計画」が立てられ
残存者を含む28戸の開拓者によって再出発したが
立地条件の劣悪を克服できないまま
似峡市街地の水没によって陸の孤島となるため
全戸離農した










進んで行く
当時の住宅の様子が朝日町史に掲載されていた
この先行き止まりまでの道沿いに 少なくても10軒以上はあったようだ










途中振り返って左手の笹薮ここが当時の道 木々の空いた状態でそれと分かる程度である
ちなみにこの場所には4軒ほど住宅があった模様










現在の道道からはそれほど遠くはないこの風景 左手が上似小学校の跡地
植林により風景は一変している










奥へと進んで行く
学校に隣接していた神社や何軒かあったであろう住宅跡を探すも このような風景が続いている










学校があった場所へと戻る途中 神社があった場所を確認してみた
林の中を注意深く覗いたが ただただ林が続いている










そして上似小学校の跡地へと
林道から眺めるとご覧のように敷地内は植林により 林になっている
ただ奥へと続いている進入路が笹薮に埋もれながらも残っていた










まだ人が一人通れるほどの切れ目があるが
後数年で全てが笹で覆い尽くされるのだろう










奥に何か建物が見える










敷地内に入った
建物の周りは少し開けたスペースが残されているが
その他は整然と木が植えられている










校庭だったであろう風景が 植林されて数年の低い木々の林になっている










昭和8年 根釧原野より移転住民28戸入植
直ちに分割された自己の土地に家屋を建て居住したため
「移民地共同小屋」を修理し 似峡尋常小学校上似特別教授場として 子弟の教育が始められた

昭和8年10月1日開校 当時の児童数は30名 村の中心は上士別市街
特に似峡からの道路は悪く
付近は開拓の始まり故 昼でも暗い程大木茂り困難を極めた
「朝日町史」より抜粋

植林された空間の奥には
昭和30年11月12日落成 ブロック造りの校舎の一部が残っていたのだ










校舎の正面玄関部分は解体されていて 続く後ろ側が残っている
閉校後に営林署関係者の休憩場所として使用されていた










校舎に並んで建っていたはずの木造体育館は解体されている
その辺り広範囲に基礎が所々確認出来るのは
体育館建物以外に教員住宅のものかもしれない










校舎の前から北の方角を眺める 奥の木々の辺りに基礎が散在している










少し離れた位置で見つけた朽ちた煙突部分 住宅のものだろう










校舎の玄関があった辺りから覗いてみる 廊下だったと思われる場所
何か置かれたままである
奥を見ると屋根がはがれ 廊下に草が生えている










建物奥の部分は あえて屋根や壁をはがしたのだろうか










かつて教室であったであろう風景 床もはがされた様子である

岩尾内ダム建設により少数残存者補償を受けて全戸転出し
昭和41年12月1日をもって廃校となる

以下朝日町史より

昭和41年12月3日付 道北日報
住民不在に1ヶ月 上似小学校の先生方4月に各々任地へ

岩尾内ダムの周辺残存補償として上似峡31戸の住民の立退補償が 最終的に決まったのは10月末
それから毎日櫛の歯が欠けるように1人減り2人減り 同部落の住民は全部家財をまとめて転出
11月15日頃にはたった1軒も残らなくなった

その頃はすでに奥地のこととて毎日吹雪きが荒れ狂い 朝日町まで20キロの道
うち旧似峡市街地までの8キロは 犬の子1匹通らない陸の孤島となってしまった

しかし町の条例で12月1日閉校と決められた上似小学校
その日が来るまで須田校長ともう1人の大石先生は 学校と運命をともにすることで
訪ねる人もいない同部落の最後を見守る人として残っていなけれればならなかった
その間の心細さは想像に余りあったと思われる

その後開かれた役場でのお別れパーティーで席上須田校長から
「恐らく全道でもこんな経験にあった教師は私1人ではないかと思う
しかし最後まで踏み止まって学校とともに運命を一つにするのが私の使命と頑張って来た」
との謝辞が述べられたのである

朝日町立上似小学校
廃校時の位置 上川郡朝日町上似原野公有地  僻地4級

校歌
1.村のかたがた 力をあわせ ひらいたところ 似峡岳
仰げばあすの 夢がわく 明るい学校 上似小学校
2.こぶしが咲けば 小鳥も歌う 冬はふぶきの たける道
みんな肩くみ 通います 楽しい学校 上似小学校
3.元気に遊び 仲良く学ぶ ぼくもわたしも 光りの子
強く正しく 進みます 希望の学校 上似小学校










林道から道道へと戻り
岩尾内ダムへと向かう途中に見つけたサイロの基礎部分
わずかではあるが上似地区の生活の痕跡をを見つけたのだった





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