増毛町信砂御料

平成22年5月他訪問



増毛町信砂御料
増毛町の中心市街地は日本海沿いにあり 町内の多くの集落がその海沿いにある
ただ信砂の集落は農地が多い内陸の山間部にあり
一番奥地へと入った御料地のあったこの信砂御料

写真の風景は増毛町の東側に隣接する北竜町から続く道々94号線
恵岱別ダムを越え信砂川に沿いながらゆっくりと下って行く

風景は山々に囲まれているが広々とした大自然の北海道らしい
ここから暫し進むと御料へと入っていく










左手に初めて道路以外の人工物が見えてきた










サイロである
しかしそれは何年も放置された様子で
辺りを見渡すも酪農を営んでいた雰囲気も全く感じられない

この地域には明治の時代から何度も開拓農家が入植したようだが
定住をみなかったようである

以下当時の厳しい内容が書かれた増毛町史から抜粋
戦後における最も大きな出来事は
昭和21年の「自作農創設特別措置法」による農地解放であろう
・・・農地解放と共に勧められたのが機構改革である
農業会が解散して翌23年に増毛町農業組合を設立
また融資関係の仕事を司る農業共済組合もスタートした・・・

これら一連の行政処置による組織づくりを光の部分とすれば
戦後を象徴する影の部分が開拓農民の緊急移住であったろう










昭和49年発行の増毛町史に
「信砂御料地区の離農のあと」と題して 廃サイロの写真が掲載されている

そこには
「離農のあと サイロむなしく」
信砂御料開拓地散見 −昭和48年−
とある
私が確認した4つのサイロのうちの一つだったのかもしれない

昭和20年11月に戦後の混乱を逃れて
信砂御料に入植した集団帰農者20戸(70名)がいた
これは国の要請による緊急開拓であり主として大阪出身者が占めていたようである
後になって考えれば可能性を無視した見通しに乏しい拓殖計画であって
戦後が生みおとした痛恨の1ページなのである

昭和28年にはじまる冷害は連続的に凶作を呼び
翌29年の台風15号の被害と共に各地に甚大な打撃を与えて去った
自然の猛威の元 もっとも弱かったのは入植して日の浅い開拓農家であった
御料地区は幾度も農民が定着しようとして失敗したところである

積雪量の多いこと 山に囲まれて日照時間の少ないこと
農作物の栽培は困難を極め冬になれば搾乳した牛乳を町まで輸送出来なくなり
家屋も埋め尽くす豪雪のなかで呻吟を繰り返さなければならなかった

多くの努力は水泡に帰し
営農の立ち行かなくなる者が続出した

こうして集団離農となったのである










幾つかの廃サイロを確認しながら増毛町側へと進んで行く
ご覧のように無人地帯でも道路だけは大変立派である

そうしていると 何かのアンテナ鉄塔が右手に見えてきた










携帯電話のアンテナの塔だろうか










その塔が立っている敷地の前は道路が掘り下げられ その敷地は一段高くなっている
そこが信砂御料小中学校のあった跡地なのだ

明治の時代に御料農地として指定されたこの付近に
その関係もあり入植した者達がいたのだろう

開校は古く明治44年4月9日
御料農地第16号地帝室林野局より五ヵ年無償貸与を受け 信砂尋常小学校の分教場が開校する
その後数度の移転を繰り返し
昭和9年6月信砂尋常小学校より独立して 信砂御料尋常小学校となる
単級で26名の児童数であった
同11年10月現在地 増毛郡大字舎熊村字信砂帝室林野局農業地45号の乙に
校舎新築し落成式を挙行する
国鉄舎熊駅より14km
国道231号の彦部より清流信砂川沿いの道道彦部妹背牛間を南へ12km遡り
周囲が山に囲まれた山峡の地である
昭和49年発行 増毛町史より










前回 平成19年に訪れた時は
閉校後も酪農の倉庫として残されていた体育館と校長住宅の
完全に倒壊した廃材が置かれていたのだが
それも全て撤去されていた

35年前までは 子供達が通う小中学校の小さな校舎が
この正面に校長住宅と並んで建っていた










校舎から一段下がっていた校庭跡は盛り土され アンテナが立てられたのだろう
道路工事関係の資材置き場としても利用されていたようなので
その時に盛り土されたのか
朽ちながら残されていた体育館も 同時に解体されてしまったのかもしれない










校庭跡地の隅に立って増毛方を眺める
人々の生活があった事など感じることさえ出来ない風景が続いている





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