神恵内村オブカル石

平成23年5月訪問



日本海の険しい風景が続く国道229号線
積丹町との境付近 景勝地窓岩そして遠くにジュウボウ岬が見えている
ここはわずか十数年前まで国道が開通していない所謂「陸の孤島」状態であった











神恵内村史が見当たらない(発行されていない様子)ので
残念ながら私は詳しい資料を入手出来ていない
そのためこの廃漁村オブカル石の成り立ちや詳細は判らないが
この地に立つと断崖絶壁と海岸線以外に平坦な地がわずかなのがわかる
現在は立派な道路が開通しているので そのような雰囲気はないが
古い空中写真からもそんな様子が分かる

私が辛うじて確認した僅かな平坦な地は 遠く正面の高台に
そこには現在でも何かの建物が建っている
しかしそれが何であるか 確認しなかったのが何故なのか判らない











積丹町側から先ほどの窓岩を振り返ってみた
正面の突き出た部分が なんとこの集落にあった安内小学校の跡地なのである











かなり高い位置に何か東屋のようなものが見える
そこは現在「あんない展望公園」として整備されている











展望公園の下へ来てみた
広々とした駐車スペースとして整備されている ここに安内小学校があったのだろうか
見づらいが左手に石碑が確認出来る
やはり何かあったのだろう











その石碑には「心勿忘」と刻まれ
台座に明治17年に寺子屋教授が始まり
昭和42年3月に廃校となった 安内小学校の簡単な校史が刻まれている
総卒業生318名
平成8年9月の 「安内小学校跡記念碑建立協賛会創」 とある











広々としたパーキングの上 「あんない展望公園」に上ってみる
何かのオブジェが見えてきた











日本海を眺めている家族の像 台座には「安内小学校址」
と言うことはこれも跡地の碑なのだ
それにしても独特な跡地の碑である 印象深い











ご覧のように日本海を眺めている
それにしても何故このような展望台のある高い位置に跡地の碑があるのだろうか











台座の碑文を確認してみる

碑文
嗚呼 西の河原よ 窓岩よ
冬は苛烈なる日本海の怒涛と相対峙し
夏は虎杖の競い立ち蝉しぐれふり注ぐこの台地
まさしくここに六十有余年に亘り教育の灯をともし続けた親と子と
そして教師の哀歓の歴史があった
昭和四十六年八月十四日
安内小学校第十六代校長 豊本綱市書

昭和46年と言うことは閉校から4年後のこと

ちなみに先程パーキングで確認した 平成8年建立の石碑にも豊本氏の名が刻まれている











その高台から日本海を眺める
国道が無かった頃はすぐ真下まで海が来ていたのかもしれない











ご覧の風景に集落があったのが想像出来るだろうか
現在は海岸線に立派な国道が走っているが 当時はそのまま崖が海に入り込んでいたと思われる
厳しい生活を想像してしまう

神恵内村のHPに
戸長設置130年 消防組織120年を記念し制作された
「愛郷かもえない」という冊子が中身そのまま全て掲載されている

正しくそこには神恵内のそれぞれの地域
険しい地形につき道路建設がままならず 村の中心部まで山道を何時間も掛けて通った等の
当時の厳しい環境 往時を偲んだ村人の話が載っている

そこにこのオブカル石出身の当時78才の方の思い出が掲載されていた

以下抜粋し紹介させていただく
大正12年に生まれた当時は 約20戸が住んでいて商店も4軒ほどあった
私の家から小学校までは歩いて5分程度でした
波打ち際の道を30分ぐらいかけて来る生徒もいて 時化ると休校になりました
その頃は波打ち際の道を通るか山道を行かなければ
陸路では隣町へ行けませんでした
特にオブカル石とノット(南側の集落)の海岸道は命の危険さえありました
小学校2年の時の大晦日だったと思いますが
オブカル石の商店に正月用の買い出しに来た
主婦が帰り道に波にさらわれて亡くなりました
それからはみんな用心して時化たときは必ず山道を歩いたものです
もっともそこも獣道で大変な思いをしたものですが
私が小学校を卒業して2年後ぐらいに営林署が林道をつけて広くしてくれました
・・・・・以下省略

それから数十年 これほど立派な道が日本海沿いの海岸線 村の南北を繋ぎ
安心して行き交う事が出来る今
便利になった時には 集落に人は残されていない











国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)
昭和51年度撮影 写真を一部分トリミングして使用

おわかりだろうか
閉校から9年後の空中写真であるが
現在の展望台の記念碑があるあたりに小さな建物が写っている
そしてこの時点ではまだ道路は造成されていない
もちろん後から建てられた記念碑のある広いパーキングのスペースも見当たらない

おそらくはこの建物こそ学校の校舎の一部ではないのだろうか
あの展望台の位置が正しく学校跡地だったのだ
それにしても何処に人々が暮らした空間があったのだろうか

この写真は昭和51年撮影 昭和46年に建立されたと思われる
先ほどの印象深い閉校記念碑がこの写真には写っているだろうと
拡大して確認すると
建物北側の角にそれらしき物が見えるのだ

上記で紹介した「愛郷かもえない」の年表にこうある
旧安内小学校の記念碑「心勿忘」が 安内小学校跡記念碑建立協賛会により
「旧安内小学校下の国道229号横に建立される」

この報告を作成中に大変お世話になっているラオウ様から貴重な資料
「郷土史神恵内」という本に安内小学校の記事が掲載されている複写を戴く事が出来た
そこにはしっかりと空中写真にあるような小さな校舎が写っている
そしてこう書かれている

古くから開けたオブカル石地区も 漁業資源の減少によって戸口も次第に減少していたが
特に港もなく 道路もなく 電気もない地域での生活は容易ではなく
昭和41年 漁家集団移転が行われて 部落の灯は消えていった・・・

神恵内村安内小学校
昭和42年3月閉校 へき地5級であった







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