穂別町立長和小学校

明治40年4月25日開校   昭和51年3月31日閉校


平成20年5月調査



交通量の非常に多い国道274号線
夕張側から旧穂別町内へ進み 穂別大橋を越すとすぐに左へ折れ

穂別ダム沿いに未舗装の道路を約2キロ少々北側へと進んで行く
すると何棟かの廃屋が見えてきた









その一つ これは何か家畜の牧舎だったものだろうか









長和の集落のかつての中心と思われる辺りに立ち
遠く向こうにある廃屋を眺める









そこには完全に錆びてしまった看板が残っていたが
「長和」という文字はしっかりと確認出来る
この看板の付近に往時は郵便局などがあったらしい

明治38年6戸の入植によって開拓が始まり
翌年には28戸194人を数え部落を形成していった
と穂別町史にはある

現在のこの辺りの風景と
ここへ到達する景色を見ていると集落があった事が不思議である
国道274号が開通する約20年ほど前までは
この地は穂別市街地から北へ20キロ以上もの道程であった









実はこの訪問時 奥では高速道路の建設中
工事関係の大型車が行き交っていた

先ほどのかつての中心地辺りから眺めると
学校跡地には何かがある
そしてこの写真を撮影した場所には
「関係者以外通行止」の看板と警備員が

ここまで来て遠望に終わるなんて どれほど悔しいことか
しかも残された木造校舎がいつ解体されるでもない

しかし無情にも警備員は通行を許可してはくれなかった
当然の事なのかもしれないが

彼は「今日で私の会社の警備は終わりです」と言っていた
私は悔しさをバネに 何と翌週もわざわざこの地へ来てみたのである

今回は通行止め解除を信じ もう一度この地まで進んで来ると
なんと目の前には信じられない光景が

彼が同じ表情でそこに立っていたのである
ほほえむ事も無く・・・









さすがに2週連続では気の毒に思ったのだろう
「徒歩でならかまわない」と一言

急いで車を空き地に停め
小走りに跡地へとやってきた
夢にまで見た 長和小学校の校舎が目の前にある
解体前に間に合った









門柱も両方残されている
しかし校名があったと思われる部分は
窪みがあるだけであった









現在この跡地は工事関係者が何かに利用しているようだ
校舎解体もそう遠くないかもしれない
しかしその残されていた校舎も
実は最近まで羊がこの建物で育てられていたようで
高速道路工事開始にあたりそれも中止され
解体される予定の校舎が何故か半分ほど残されたようだ









近づくと木造校舎の味わいある雰囲気を十分に残している









しかし別角度から見ると改造され換気扇などが取り付けられ
校舎らしくなくなってしまっていた









玄関のガラスも割れ
何か落書きもされている









裏手へまわってみた
笹藪の向こうに見える校舎裏側壁は 残っているのかいないのか
正面から見るに止めておいたほうが良さそうである









気が付かなかったが
奥にはなんと体育館建物も残されていた









この雰囲気では こちらも何かに使用されていたのだろう
小走りに何とかこの地まで来ることが出来たのだが
関係者が来るとつまみ出されそうだったので
建物内部の確認までの余裕はなかった









解体された部分の校舎の床がむき出しになっている
牧舎に使用した時にでもコンクリートを敷き詰めたのではないだろうか









振り返ると半分になった校舎の切れ目は
塞がれているようではあるが
ご覧の様に上部が開いたままであった









そこにカメラを入れて撮影
何か判らない物がなんとなく置かれている
そして校舎だった形跡を全く残していない









もう一度 僅かに残された味わいある校舎をアップで

このような奥地ではあったが
テニスコートやスケートリンクの新設など
施設の充実がはかられ
昭和33年以降は小学校2学級
昭和39年以降は中学校3学級という
充実した教育が行われていた
その長和中学校は昭和22年5月に開校併置されている

しかしながら同40年ころから離農者が相次ぎ過疎化現象を呈し
同43年3月には中学校が閉校し
同50年8月には児童数1人だけとなり
ついに同年10月30日に閉校式が行われ
昭和50年度を以て閉校となったのである

実はこの先の最奥地には
新登川小中学校跡があるのだが
上記の理由から
そこへはいつ訪問出来ることになるのだろう
さすがに徒歩では行ける自信はないもので





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