沼田町立昭和小学校

昭和5年4月1日開校   昭和44年7月31日閉校


平成21年5月訪問



沼田町北部
浅野炭山跡地のポロピリ湖から道道867号線を北上し
途中 林道となったかつての昭和炭鉱跡地へ続く道を進む
その未舗装の道路は道道から5qほど続き
その奥に昭和の集落跡地がある

途中に架かる橋の欄干は
この先で数年前まで露天堀を行っていた企業が
産出物を運搬するダンプを通行させるため
全て撤去されていた

右手奥に見える橋台は
国鉄恵比島駅(現JR留萌本線恵比島駅)に繋がる私鉄
留萌鉄道の廃線跡である









進んで行くと何もない山間の林道の道路脇に
このような炭住の廃墟が現れて来た









そうしているうちに昭和の集落入り口付近
右手が昭和小学校跡地
左手に留萌鉄道の昭和駅が40年前まであったのである









少し進んで振り返ると
学校跡へと上る階段が残されていた









夏場はこの上に進むにはかなり難儀しそうである









道路から一段上がった学校跡地に上がると何と
ご覧の大きな建物の基礎が残されているではないか









広範囲に塚石が整然と並び
基礎もかなりの大きさで残されている

昭和5年の開校後すぐ炭鉱開発による急激な児童増加により
その年度末の児童数は50名となる
そして校舎の新築・増改築・体育館の建築
給食設備完成・校庭の拡張と続き
児童数は昭和35年のピーク時
15学級716名となった

また併置開校した昭和中学校も独立校舎完成し
おそらく同地内に建設されていたものと思われる

全く信じられない事であるが
ここにそれほどの規模の建物があったのは確かで
この基礎達がその証なのだ









2階建ての大きな校舎を支えていた基礎達が
寂しく残されている









基礎の周りには何本もの煙突が倒れていた









奥の方で発見したこの真っ直ぐに並ぶ何か
これが一番壮観だったかもしれない









綺麗に並ぶ白いヘルメットではなく
便器なのである

この調査時もお世話になっているniyancop様主催の合同探索によるもの
トイレ跡は主催者様のおかげで拝見する事が出来た事に
感謝する次第である









もう一度道路に降りて
判りづらいが下へと続く廊下の跡
ここに奥へと続くもう一つの校舎があった









その校舎建物があったであろう前にも
家々が並んでいたのだろう
煉瓦のその朽ちた建物の一部が残っている









校舎の下部に残る何か
何室か何かだったのだろうか









その内部 何もない









学校跡地に並んで広々とした空間が残る
おそらくはここが校庭の跡だろう
遊具施設など残されていないか探したが特に見つけられない









小学校の調査を終え 昭和炭鉱の跡地も調べてみた
昭和小学校前の 幌新太刀別川の対岸に昭和駅の跡地がある
そこへ架かる橋は完全に撤去され
その根本だけが対岸に残されている

そこに駅施設があった事が想像出来ないほど
林となっている









昭和の集落へ向う入り口に残る橋
ここを渡ると集落の跡地









留萌鉄道で活躍した機関車
クラウスがまわったであろうターンテーブル跡の窪みが
くっきりと残されている









その先にある選炭場の大きなコンクリート土台
中に熊が隠れていそうで怖いものである









さらに先へと
この道沿いそして両方の山の斜面に何棟もの住宅が建ち並んでいた事だろう
現在は熊のすみかとなるほどのひっそりと静まりかえった
完全な無人地帯である









有名な廃アパート群が見えてきた









言葉をなくすほどの感動を覚える









沼田町最北部 深い山の中
ひっそりとこのような風景があることを
どれほどの人が知る事だろうか

かつてこの沼田町浅野・昭和の築で繁栄を続けた石炭鉱業も
わずか半年の間になだれ閉山現象を生じて
3鉱業所が一斉に壊滅した
昭和44年9月に閉山した明治昭和鉱業
炭鉱の発展により人口が増えたこの地区は
その事により急激に人口減となり
小中学校も閉校をむかえる

昭和小学校は手前の浅野炭鉱にあった浅野小学校に統合されたが
その浅野小学校も翌年の昭和45年3月をもって閉校となった
かつて両校合わせ2千人以上いた児童数
昭和小学校跡地は上記の通りで
現在浅野小学校跡地はポロピリ湖に沈んでいる





back

inserted by FC2 system