洞爺村立富丘小中学校
明治42年1月25日開校 昭和48年3月31日閉校
平成21年5月訪問
洞爺村史にはこう記述されている
さて初めて人煙を見た富丘は明治41年には戸数も24戸になり
子弟の教育についても早急に解決しなければならなくなった
住民代表は虻田村会に対し再三小学校を作ってくれるよう陳情したが
児童数が少ないのと非常な辺地であるため
将来の発展が果たして小学校を必要とするかどうか疑問であるとして
なかなか承認されなかった
それで部落民の負担で簡単な教育の場を作ることを決め
木取りから挽材工作など全部労力奉仕をし
僅か三日間で掘立小屋を作った
この速成学校は便所その他の付属建物は一切なく
壁は草で囲い窓は寒冷紗を張り床板なく土間
その中央に三尺四方の炉を作って入口にむしろを下げて
戸とするというものであった
これで校舎と呼べるかどうかわからないが
ともかく出来上がった校舎で6人の生徒が炉を囲んで
富丘地区の教育の灯がともされたのである
ここは現在富丘牧場のある場所で
その施設以外はほとんど建物は見当たらない
この敷地へ続く道路と小さな富丘集会所
どちらも出来たてといった感じである
が まさかこれらが作られる訪問寸前まで
校舎や校門などが残されていたのでは
などと悲しい想像をしてしまうのである
集会所の裏側は小さな公園として整備されているが
その隅に何かの案内板のようなものと石碑が置かれている
「学舎の跡」
正しくであった
こちらは「富丘居住者地図表示板」
大正6年の様子と昭和23年の物が記載されているが
昭和の方が半分ほどに減っている
昭和23年を見ると学校記号の周りにこんなに住民がいたのかと
驚かされる
現在学校の周りは 牧場がある以外自然へと帰っている