浦幌町立常室小学校炭砿分校

昭和21年12月9日開校   昭和42年7月31日閉校


平成21年10月訪問



道道56号線 常室小学校跡の前に立つ道路標識
←炭山 道道500号線となっている









農地を眺めながら上常室小学校のあった福山を抜け
約8キロほど進んで行くと炭鉱地区の入り口
かつてのブロック造りの住宅棟が朽ちた状態で現れる









何故解体されていないのか判らないが
不思議な光景









周りには木々が育ち
夏場なら確認することが困難かもしれない









その住宅群からすぐ先 未舗装の道路と変わり
そこをしばし進む









何か小さな公園のように整備された場所が現れる









「みらいの森」とある
傍らにある看板









浦幌炭鉱にあった様々な施設の位置が書かれている

浦幌炭砿
終戦後の石炭の重要性に鑑み
尺別炭砿の復旧と共に復興着手
採炭が再開され十勝唯一の炭砿として脚光を浴びるが
その後炭界の不況により閉山となった(昭和22年〜29年)

先ほどの唯一残る建築物に始まり
この案内板のある位置には協和会館や炭砿中学校
この先には派出所や消防署そして炭砿小学校
砿員寮や購買会や病院等があった一大市街が構成されたようである









案内板の正面には協和会館があった









かつてここに協和会館があった事を示す看板がある









とてもこのような建物が建っていたことなど想像も出来ない









折角なので一大集落があった事を確認しに行く
メインストリート?は現在こんな風景に









何かを示す看板を発見









「復興記念碑」









少し高い位置に設置されていた









その傍らに建つ木標
「昭和十九年浦幌炭鉱國民学校卒業生訪問記念」
昭和63年8月と裏側に書かれている









道を更に進んで行くとこの看板









旧病院跡地
「この周辺は一大市街地を形成しておりました
その当時浦幌町の人口は14,000人以上」









木々の間に病院の門柱?や基礎がそのまま残っている









更に奥へ









旧尺浦通洞跡地
「昭和20年代に使用された石炭運搬軌道に係わる
尺浦トンネルと軌道跡があります」

昭和17年完成
山を越えた先の尺別炭砿とを結んだ軌道の
小さなトンネルが残されているようだ









折角なので上ってみる
軌道跡に育つ木々









軌道跡は崩れ 歩くには少々不安が
奥に尺浦隧道がそのまま残されているようだ









ここから尺別側へと続いていた









扁額にはしっかりと「尺浦隧道」









内部はすぐそこで崩れている









振り返るとかなりの高さ
すぐ手前の路盤築堤は崩れ本当に危険な状態









下りて更に辺りを探索するとこの写真
尺浦隧道を出るとすぐ常室川を渡る橋梁があった
その貴重な写真









現在でもその大きな橋台の片側が 道道沿いに残っている









古びた道道標識
道道500号線 一般道道音別浦幌線とある









本題の小学校跡地へ
ここは入り口の付近にあり
先ほどの炭鉱集落跡地から少し戻った位置









小学校の写真が先ほどの物達のように跡地の説明として立っている









写真を見ると常室川の対岸山裾に大きな校舎が建っていた









現在そこへと架かっていた橋は残っていないため
徒歩での渡川を試みる
何とか渡り小学校跡地の入り口へ









校舎へ続いていたであろうスロープはご覧の状況









植林されたようで一面の林へ変わっている









じっくり探すと基礎の一部が残ってはいる









コンクリートの残骸も発見

しかしあれだけ大きな建物があったような
広範囲に渡る基礎が確認出来ないのが大変不思議な事である
わざわざ植林するために基礎を掘り返し撤去したのであろうか









奥にはこのように便曹なのか
一列に並ぶ窪みが確認出来る









校舎があったと思われる一段高い位置から校庭跡を眺めた
全くここに学校があった事を感じさせない風景へと変わっている

小学校や中学校そして浦幌高校の分校まで開校するほど
活況を呈した炭砿集落ではあったが
昭和29年11月に至って炭砿界の不況により閉山となる
炭砿従業員は雄別・尺別・茂尻の各鉱業所に配置転換となり
この浦幌炭砿は留守番のみとなり急激に淋しさを増した

そのため児童・生徒は減少し
浦幌高等学校炭砿分校は廃校
昭和32年4月からはこの炭砿小学校も
上常室小学校の分校へ格下げとなる(後に常室小学校に移る)
その後浦幌炭砿の住民は皆無に等しくなり
昭和42年7月閉校となったのである





back

inserted by FC2 system