紋別市沼の上鉱山

平成23年6月訪問



紋別市最東部
湧別町との境界線 シブノツナイ川沿いに
沼の上の地区から市道を南方 奥へと進んでいく
辺りは酪農家が点在している
入口の国道238号線から6キロほどだろうか 数百メートルおきに確認出来る酪農家の施設を確認しながら
右手に数軒の古びた建物が並ぶ 開けた敷地が見えてくる
その奥に この大きな木造の建物が残されている

志文小学校
昭和57年3月31日閉校
4年ぶりに訪れた校舎は残念ながら玄関横が大きく崩れ
進入路には「危険 立入禁止」の看板が下げられていた

道路を挟んで酪農家の方が住んでいるが
その方がこの志文小学校の敷地や校舎を利用している様子
校庭跡地には牛舎なのか大きな施設が建設中であった

志文小学校の校舎も近いうちに解体されるのかもしれない










志文の地区から奥へ5`ほどの位置にかつて沼の上鉱山があった

以下紋別市史より
戦後紋別市内で経営された金・銀鉱山は鴻之舞鉱業所と沼の上鉱山の2鉱山である
沼の上鉱山は大正5年鉱山が発見され昭和3年三菱金属鉱業の経営にとなる
昭和7年から20年までの間 粗鉱月産2000dの出鉱を続け これがこの鉱山の最盛期だった

昭和33年からは探鉱に努力を傾注したが 逐年高品位鉱の鉱源発見の確立が衰退するばかりで
鉱源が枯渇する様相となり広範囲に渡って探鉱が進められた
ついに安定鉱脈を発見するに至らなかった

写真は志文小学校跡地から1`ほど 舗装道路がここから途切れる場所である










進んで行くと1軒の廃屋と
その先に廃サイロ ここら辺までは農業による入植があったのだろう










あとはこのように山中の風景が続くのみである










ご覧のように大きく開けた場所もある
沼の上鉱山は正面の山の裏手ではないだろうか










更に進んで行くと植林されたかのように木々が整然と並んでいる風景に変わる

最盛当時 採掘していたのは2鉱区
総坑道延長22・5`に及び
社宅 購買会 集会所 理髪所 小学校などと整えられた集落は
名寄本線から10`のへき地ながら 別天地をなしていた










紋別市史には山すそに家々が建ち並び バスも走る写真が掲載されているが
この辺りがその風景だったのかもしれない

そしてこの地に開校した上志文小学校

昭和4年9月28日
三菱沼の上鉱山経営私塾の名称で開設をみたのが本校の前身である
沼の上鉱山の事業が拡張されるに伴い従業員の入地が増加
その子女は約6`の志文特別教授場まで通学しなければならず
道路は雨が降ればぬかるみが幾日も続き 冬は吹雪きがあると数日間は人馬の往来が止まる
鉱山所長が奔走し 鉱山家庭教授所開設の認可を得
児童増加により2部授業を開始
5・6年生は志文小学校へ通わせ 校舎増築しその児童を引き取るなど苦心を重ねた

昭和12年には監督官庁の強い勧告 鉱山側の努力により公立移管
志文尋常小学校所属上志文特別教授場とし改称
昭和23年10月には上志文小学校に昇格した
児童数36名であった

34年11月鉱山は閉山となり従業員とその家族は下川鉱業所に移ったため
学校もその12月に閉校となる

紋別市はほぼ全ての廃校跡地に記念碑を建立している
しかしこの上志文小学校の跡地だけには それを示すものを全く何も作っていない

そのため住宅程度の小さな校舎だった上志文小学校が
どの位置にあったのかは定かではない










昭和34年10月
ついに鉱源も尽きて昭和3年以来含有金量1405kg
同銀量9万4149kgを生産した 沼の上鉱山は休山し
従業員は同じ三菱金属下川鉱業所に移り
施設は全て撤収されて あとは一望の無人の草地と化してしまった
以上紋別市史より抜粋


無人となったこの沼の上鉱山の町 現在は自然の風景を残すのみとなっている
鉱山街があった辺りを過ぎると 北側に分岐する道がある
この奥に地形図では鉱山の記号がある

何か痕跡でもないかと折角なので確認しに行こうと思う










訪問時はこの先で木々の伐採か何かの作業をしているようであった
こんな所でも作業をしている

ここからは数百メートル先だと思われるが
作業の邪魔をしそうで大変残念ながらここで断念してしまった










何とその奥 鉱山跡の写真を手に入れる事が出来た
いつも大変お世話になっているK・T様の調査時の撮影である


以下K・T様より
入口から100メートルほどの砂防ダムまでは道がしっかり
しかしその先 ダムから上は草木で道が発見できず
やむなく横の斜面に残る廃道の跡を通り 奥に200メートルほど進み 土管が見えたので急斜面を降りた










 近くには土管が散乱 標柱があり 「38年3月27日 志文鉱山川」とありました

さらに50メートルほど荒地を歩くと ぽっかりと崖に坑口が開いていました
封鎖されてい ないのに驚きました
その鉱山川 どうやら坑口からの湧水により川ができているようです
坑口の横に台形の整地した跡があり 上に上ると下にコンクリートの建物跡がありました
もっとゆっくりしたかったのですが 車を降りてから熊よけに鈴を打ち鳴らす 叫ぶで疲れ早々に退散しました










それがこの坑口の写真である

大変貴重な資料を提供していただたK・T様
本当に感謝です





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